こんなことを思ったことはないでしょうか
自分には才能がない。だから実力が自分に及ばない人は努力が足りない。
思うに、これは非常に使い勝手がよく、同時に残酷な思考だと思います。言及したとしたならばなおさらです。
少し私の話をしましょうか。
ぷよぷよを始めたのは27歳、それまでは全くと言っていいほどプレイしてきませんでした。
それから北海道ぷよぷよ対戦会にひょんなことから参加するようになり、当然できるだけ勝ちたいわけですから、練習しました。
そのころの私は地方公務員でしたが、取り巻く当時の現状は以下の通りです。
・月100時間以上の残業は当たり前
・100連勤など普通
・上司からの罵詈雑言は日常茶飯事、時には暴力も
こんななかでもぷよに取り組めたのは、楽しさや負けん気というよりも
ぷよに没頭していた
ことに他ならないと今になって思います。
どれだけ疲弊しようと、いくら睡眠時間を削ろうと、とこぷよや対戦に明け暮れたものです。
休日が取れようものなら1日中ぷよをしていました。
そして対戦会には参加できる日には毎回、1番乗りにゲーセンに駆け込み、閉店時間までプレイしました。
具体的に言えば朝7時から夜12時までプレイし続けたのです。
そしてどうなったかというと3年ほどで体を壊し、公的に障害者と認められ制度を利用するに至りました。
その後も活動は続けていましたが、10年間勤務の末、先日、退職するに至りました。
果たしてその結果、私はどれだけぷよぷよが上手くなったのでしょうか。
レートにしてPS4で2600、switchで2800
これがまごうことなき私の実力です。おそらく大多数の読者様と連戦すれば十中八九、負け越すでしょう。
ここで題材に移るのですが、結局、私はぷよぷよの才能はあったのでしょうか?
この話をするにあたりぷよぷよの才能とは何であろうかということを考えなければなりません。
それにはまず、ぷよぷよが強い人が秀でているのはどのようなスキルであるかに目を向けなければならないでしょう。
例えば、以下のように分類するとします。
・連鎖構築能力
・凝視精度
・瞬間的判断力
・ツモに応じた手順
・以上の技術を多数同時に発揮できる能力
そしてこれらの能力が私に備わっているかを自身に問うてみれば
ない
わけです。自覚もありますし何より勝ててないわけですから。
では、ぷよに取り組むにあたり、私には何もなかったのでしょうか、そこに思いを馳せた時に一つだけ、たった一つだけ、自分にある才能がありました。
それは
体を張る才能
そう、私は、自身の健康を顧みずに取り組むという才能のみがありました。
だからこそ、上記の通り活動を続けてこれて、ある程度は上達できたわけです。
話を戻します。果たして私は、自分よりぷよが強い方や上達が早い方より努力が足りなかったのでしょうか。
自信を持って言えます。私は与えられた環境下で出来る限りのことをしたと。
でも届かないのです。勝てないのです。これが現実なのです。
さて、たった一つの才能をいやしくも見つけてみせたわけですが、その才能は人類のなかでどれだけのものなのでしょうか、少しでも想像してみるとすれば
おそらく自分以上に同じ分野で私以上の才能を持っている方など滅茶苦茶いる
ということから目を背けるわけにはいきません。
ジャンルは違いますが、格ゲーマーのクラハシ氏のように、自宅の電気を犠牲にし、無料のパンの耳で食いつないだ経験は私にはありません(諸説あります)
このように、1つ才能と言っても、それは「ある」と「ない」の2択ではなく、さながらグラデーションのように、そして多岐にわたる分野を横断する。
これが才能だと思っています。
そこを踏まえて、冒頭のセリフを思い返してみましょう。
ぷよぷよの(ある特定の)実力が劣っている人は、必ずしも努力が不足していると断定できるのか?
ということを少しでも想像してみたとすれば、ともすれば、
相手のそれまでの取り組みそのものをなかったと断ずる
言葉ではないでしょうか?
それを理解して「目標に対してあなたの才能ではいまの頑張りでは足りないよ」「もっと違う方法で取り組む必要があるよ」というのと
「実力が足りないのだから努力の絶対量が足りてない、もっとがんばれ」
では全く毛色が違うのです。
人によっては、この一言で心が折れるくらいには暴力的でいてかつ悪意のない、無邪気な言葉としてよく耳にするのです。
誤解しないでいただきたいのは、私の認識として才能がない=楽しくないではないということ。
何を目標とするか、何に楽しみを見出すのかなど千差万別でしかるべきだと考えます。プロ以外楽しくないなど思ってません。
ただ自分より才能がある人がいると自覚している人からの自分より格下の人に向ける言葉は、極端な話をするならば、コミュニティの崩壊に直結することもあるでしょう。
なにしろ、どれだけ(個人において)頑張ったとしても、それそのものが否定されるのですから。誰しもが私のように「体を張れる」わけでもないのです。
では、持たざるものはどうすればいいのでしょう、持っている側にばかり注文をつけるのはフェアではありません。
これはただ一つ「称賛」するほかない、才能があるあなたは素晴らしい、と素直に認めるべきです。
近年、幼い子が大人より優れたパフォーマンスを発揮している場面などいくらでもあります。そこで嫉妬などしても何にもなりません。
つまり、我々が才能についてできることは、自分の才覚を過小評価することはしない、「努力」の絶対量で語らない、持ってる人を認める(足を引っ張らない)
これが付き合い方の落としどころというものだと考えます。
自分の潜在能力を理解したうえで自分にとって出来ることを精一杯やって、ゲームを楽しむ、この一連の取り組みを謳歌することも才能だとするのならば、
誰しもが何らかの才能を持っている、そう考えることも一つの考え方ではないでしょうか。