135

強いから賢いのか、賢いから強いのか。

by
横えび
横えび

 ご無沙汰しております。誰も覚えておられないと思いますが、岐阜なごやん横えびでございます。(今年もGTRタナカッチの消息は掴めておりません、せめてどなたかヒントを!)
 2024年最初でラストぷよキャン記事、 ぷよらーアドカレ2024並走部 に便乗しました。長文ですが暫しのご辛抱を。

ぷよらー競馬部の皆々様。有馬記念ドウデュース武豊はまさかの事態に見舞われてしまいましたが、諸兄の本命はいかがでしょう?)

「横えびさん、ぷよぷよキャンプです」
「おねがいしまーす!」
「久々に質問来てます。“上位ぷよらーは高学歴の方が多いと聞きますが、これは初期からそうなのでしょうか?”」
「あー、なるほど。理系トップ大学や大学院、大学ぷよぷよサークル。いつからそういう傾向にあるのか」
「いけますか?」
「いきましょう。おねがいします!」
 (今浪隆博のスポーツメンタルTV風に)


 上記について結論から先に書くとYES、それはもう首がもげる程イエスである。
 今回は歴史の生き証人として6年ぶりに、初期エピソードとその後日談について最古参視点で書いていきたい。

 1995年12月23日、東京都世田谷区ゲームinナミキ明大前。
 アーケード黎明期の聖地で開催された、初のAJPA(コンパイル全日本ぷよ協会)公認トーナメント。大学1年生の横えび君は初戦で現役の東大医学部生と当たり、中盤の発火催促に手も足も出ずストレート負け。ナミキに通い始めて5ヶ月が経過していたが、AC大会は他タイトルも含め生涯初。試合前から終始緊張しっぱなし、得意の階段折り返し(当時の小職は階段と速攻しかできなかった、と言うか不定形やGTRといった思想がまだなかった)を組ませてもらえなかった。医学部生氏はそのまま準優勝(後述)、18歳だった小職は対戦ガチ勢1年目で大きなショックを受けたのであった。



 
令和の首都圏ぷよぷよ対戦台、ぷよ通スポラン金曜対戦会。
 パズルタイトル多数 & ぷよぷよeスポーツ稼働中、新宿スポーツランド本館。



 1996年2月18日、東京都世田谷区ゲームinナミキ明大前。
 この日から隔月で開催され始めた第1回NAMIKIぷよ通グランプリ、横えび君は32人トーナメントで4位入賞したが・・
(※ (↓)の台詞は、史実を基にした小職の妄想です。先生方、勝手にネタにしてゴメンナサイ!)

準々決勝の相手現役東大生です。渋谷セガ対戦台最強、7年後に博士号を取得しました」(3-2で辛勝)
準決勝の相手現役東大生です。高校在学時に数学オリンピック入賞しました、同年の世界大会に出場した崩珠の作者さんとは別人です」(0-3で惨敗)
3位決定戦の相手現役東大生です。渋谷セガ対戦台ナンバーツー、現在は都内国立大学で教授やってます」(0-3で惨敗)

 学歴ぷよ歴いずれも今浪クラス(コラッ!)の小職、初入賞の喜びよりも「(・・ここ、確かゲーセンだよね??魔境すぎるだろ・・)」と宇宙猫状態に。最寄駅は京王線の明大前だから、明治大学ゲーマーが多いというならわかる。しかし同路線は渋谷方面に駒場東大前なるモンスター駅があり、少し足を延ばせば高田馬場の早稲田大学。囲碁チェス将棋テトリスのみならず、賢い理系学生はぷよぷよも上手いというシンプルな事実を噛み締めざるを得なかった。


 更に4ヶ月後。地元セブンアイランド対戦台に入り浸っていた横えび君は、またしても不可解な風景に出くわした。複数の高校生が受験生御用達、赤本を読みながら乱入してきたのである。ここはゲームセンターなる訳アリ共の巣窟であってガッコーでも予備校でもないぞ、それとも参考本風ぷよぷよ攻略本でもあったっけ・・ と訝しみつつ彼らの風体をよく見ると、小職の弟と同じ制服であった。
 神奈川屈指の進学校、横浜からほど近い私立浅野高校。現役受験生が勉強もようせんとゲーム三昧とは如何なものか(※ 人のことは言えません)と思いつつ、インカムに厳しい同店は彼らの50円玉がなければ、七島ぷよ通は早々に1P台へ格下げになる危険が高かったのもまた事実。同年度末に彼らは無事志望校へ合格し小職の杞憂は画面外に消え去ったのだが、うち1名は大学とゲーセン通いを継続しながら仮面浪人生活、1年後に別の国立大学へ合格。受験勉強を続けていたと知らなかった小職は驚いたが、天は二物も三物も与えるとしか言いようがない。

 さて平凡な高校と文系大学をごく平凡な成績で卒業した(本当デスよ!)氷河期世代の小職も、若干ながら似たような経験があった。
 横えび氏は経済学部卒だが数学は割と得意(過去形)で部活は将棋部(弱いアマ二段くらい?)、受験時に社会か数学いずれかを選択する場合は数学を選んでいた。1999年夏に最初の就職先を脱走した小職はバイト代を全ツ分割ローンし横浜駅西口のセブンアイランドでサレジオぷよ軍団に参考書やエロ同人誌を買わされ財布を全消s東口のTAC予備校に通っていたが、数的処理とSPIに限れば無対策でも模擬試験等でほぼ満点、上位5%以内を維持していた(過去形)。また20代前半くらいまで、50×50くらいまでの掛け算はほぼ瞬時に脳内計算できた(過去形)。法律や社会学や小論文方面は学生時代ほとんど勉強しておらず付け焼刃、英語や理科に至ってはほぼ捨てていたのを考えれば、数学系アドバンテージは相当に大きかったと思う。
 予備校時代の文系お仲間受験生達が数学系科目にかなりの苦戦を強いられ、通い始めた頃は「(なんで自分だけこんなに解けるんだろ?)」と思っていた。アーケードぷよ通なる連鎖地獄で頭脳ゴリラのウホウホ仲魔たちに圧し潰されていた頃は気付かなかったのだが、彼の地で得たスキルは現実世界でも応用可能だった。芸は身を助くと言うべきか、2001年に再就職できたのはぷよぷよにハマッていた影響だった、と今でも思っている。

 万年独身中年の横えび氏から、最後に少々真面目な助言を。
 ぷよらーをお子に持つ親御さん方、義務教育中でしたらぷよぷよを1年くらいサボッても追い付くのは難しいことではありません。小職が書いても説得力ないかもしれませんが、勉学との両立は大切ですヨ!




(ここから先は余談)
 2008年6月30日。先述の1995年12月ナミキ大会で医学部生氏を破り優勝したMさんと小職(当時は2名とも秋葉原対戦会メンバー)は、赤門からご招待を受ける僥倖に恵まれました。
 夜の本郷キャンパス、工学部2号館9階大教室。東京大学大学院情報学環コンテンツ創造科学産学連携教育プログラム(なが!)の吉田正高先生と、魔導物語ぷよぷよ原作者の米光一成教授。そして10名ほどの院生さん方etcに囲まれた両名は、ファミコン版ぷよぷよとプレステ版ぷよぷよ通決定盤の模範対戦、Mさんがホワイトボードに階段積みと挟み込みの基本図を描き各種説明、ミスケンKamestry対戦の動画解説などなど、ぶっつけ本番かつハードルの高いタスクを遂行したのでございます。
 院生の方同士が対戦する際、吉田先生が「対戦前に、自分のぷよ歴を申告して」と指示されていましたが「今日が初めてです」という方も何人かおられました。見ていて驚いたのは、初プレイとは思えないほど“連鎖を組もうとする意思”を彼らから感じたことでございます。初心者時代の小職も含め大抵の方はまず何をすればいいのかわからず、慌てるのが普通でございます。しかし彼らにその手の逡巡は皆無で、自ら勝ちにいく積極性と能動的に連鎖を組みにいく思考とが滲み出ておりました。これが日本最高峰の頭脳か、とMさん共々感嘆しきりでございました。
 当日の様子はすべて録画されており一部は1週間後に開催された東大ぷよぷよ講義(この日は聴講側で参加、無名時代のselvaプロらも同席)で流されましたが、その後はお蔵入りになってしまったのでございましょうか?主催の吉田教授は、後に東北芸術工科大学でコンテンツ文化史学会を主催し2018年に急逝(嗚呼・・)されました。願わくは来世にて、当時のことをゆっくりお伺いできれば幸いでございます。


2008年7月7日、コンテンツ文化史第7回講義。教壇左側が米光教授、右は吉田教授。
 スクリーンにうっすら映っているのは、Mさんと横えび。
更新日時:2024/12/21 21:00
(作成日時:2024/12/21 16:40)
コメント( 0 )
コメントするにはログインが必要です
シェア